2013/11/25

by 感覚を言葉にする

これはむつかしいことです。
こんにちは みなさま。

テニスをたのしんでいらっしゃいますか?

今年のうちに新しいことを始めようとおもっている フロント児玉維賢です。

何を始めるかは、まあ、始めた上で続けられそうだったらまたご報告します…。

「こうすれば、よい。ではなくて、『こうしなければ、よい』。この感覚を手に入れたときは、長く好調が続くよ」

イチロー選手の言葉です。

たまたま松井さん(わたしのだいすきな松井秀喜さんです。参照 → http://www.viptop.jp/blog/sagamiono/2013/05/_by_16.html#more

との対談を見つけ、食い入るようにみていたら、そんな言葉が出てきました。

話の流れはこうです。

松井さん「イチローさんは、平凡なセカンドゴロ(つまりミス)で、とつぜん目の前が開けた思いがした、とおっしゃっていました。ぼくには、そういう経験がないんです。どうして、凡打からそういった感覚を見出せるのですか。」

イチロー選手「あれはミスだからこそ、感じるものがあった。こうすればよい、ではなくて、こうしなければよいという感覚を手に入れた。そこからの好調は長く続いたよ」

な、なるほど…。

イチロー選手は深夜に急にバッティング練習を始めるくらい、自分と向き合える人間です。
向き合い続けているからこそ、「自分」が分かるわけです。

そして、現状から何をマイナスすればよいものが残るか、理解できる。

イチロー選手は、誰でもただのミスで片付けるような、平々凡々としたセカンドゴロからそれを見つけたということです。

さらりと書きましたが、これは砂漠の中から砂金を見つけるようなもの。

途方もない数の失敗を乗り越えてきて、そのたびその失敗を見つめなおしたのでしょう。

日米通算4000本安打を達成したときのインタビューでも、そういった姿勢が見え隠れします。

「これからも失敗をいっぱい重ねていって、たまにうまくいってという繰り返しだと思うんですよね」

「4000本打つのに、8000回以上、悔しい思いをしてきた。そこに自分なりに向き合ってこれた。誇れるとしたら、そこじゃないですかね」

ほんとうに、イチロー選手は感覚を言葉にするのがうまいなあとおもいます。

とことんまで極みを求めていないと、たどり着けないような境地で勝負してきて、感覚という曖昧なところを抜け出しているんだろうなあと。

きっとテニスでもそうです。

こうしなくちゃ、ああしなくちゃ、と考えすぎてしまうことはありませんか?

でも、イチロー選手が言ったように「こうしなければよい」というほうが、スムーズなときがあるかもしれません。

むしろテニスに限らず、いろいろなことに応用できるような言葉かもしれません。

これからも少しずつでもテニスを高めていきたい、と考えているわたしには心に響いてくるものがありました。

ご覧いただいたみなさまにも、何かの役に立つといいなとおもっています。

今日の一枚:無題
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